「レディ・プレイヤー1」以来スピルバーグにとって3年ぶりの新作が公開延期を経てついに日本公開しました!昨年からずっと楽しみにしていたので、公開日初日にさっそく観に行ってきました!
ミュージカルだったので今回はドルビーアトモスを選択。音響設備が良くて大正解でした。
直前にロバート・ワイズ版の「ウエスト・サイド物語」(1961年)を観直したのでオリジナル版との違いや、圧倒的な映像と音楽になって蘇ったこの映画を存分に楽しむことができました。もう、本当に最高の映画体験、エンターテインメントでした。
撮影は「シンドラーのリスト」以降おなじみのヤヌス・カミンスキーが担当。今回もベテランの巧みの技で画作りに圧倒的な深みを与えていますね。
それではさっそく、考察と感想を書いていきたいと思います!
あらすじ
夢や成功を求め、多くの移民たちが暮らすニューヨークのウエスト・サイド。 だが、貧困や差別に不満を募らせた若者たちは同胞の仲間と結束し、各チームの対立は激化していった。 ある日、プエルトリコ系移民で構成された“シャークス”のリーダーを兄に持つマリアは、対立するヨーロッパ系移民“ジェッツ”の元リーダーのトニーと出会い、一瞬で惹かれあう。この禁断の愛が、多くの人々の運命を変えていくことも知らずに…。(HPより抜粋)
以下、ネタバレ含みます。
(1)スピルバーグの作家性が爆発。原点回帰的な作品
スピルバーグの世間的な印象は子供から大人までみんなが間違いなく楽しめる娯楽映画監督というイメージが強いと思います。
でも実はシリアスな戦争映画を何作も監督していて、特に「未知との遭遇」や「ET」など初期作品では、スピルバーグならではの作家性がかなり発揮されているのは、意外と知られていないかもしれません。
例えばスピルバーグがこれまでの映画で描いてきたことは「格差」「貧困」「教育」「郊外」「家族の不在」「コミュニケーションの重要性」「強烈な光と陰」などです。
今回の作品には上記に挙げたものがどれも顕著に表れており、2022年の今、語るべき映画、リメイクすべき映画として「ウエスト・サイド・ストーリー」を選んだのだと思います。
スピルバーグはテレビのインタビューで昨今のアメリカで起こる移民問題、人種差別によるアメリカの分断を憂いていました。自国の分断を目の当たりにして、今こそ「ウエスト・サイド・ストーリー」を自分の手で映画にする必要があると思った、と語っていました。
つまり、アメリカの昨今の状況を見て「ウエスト・サイド・ストーリー」を最優先で映画化することを強く求めたのです。今のアメリカを語る上で、最高の題材が「ウエスト・サイド・ストーリー」だったわけです。
プエルトリコ系集団のシャークスとアメリカ系集団のジェッツは、双方とも貧しい出自で頼れる家族もいないことが冒頭の抗争で明かされます。「ユダヤ人の子孫」というシュランク警部補の言葉も、オリジナルにはなかったセリフが追加されていました。
なぜ、ここでユダヤという言葉を追加したのかと言うと、スピルバーグはユダヤ系にルーツがあるからです。
さらに本作では、オリジナル版よりもシャークス側の方に、焦点が当てられて描かれていたことも印象的でした。ジェッツ側のミュージカルシーンやジェッツのリーダー・リフの彼女であるラジェラもほとんどセリフがないような役で登場していました。
そして教育という面では、ベルトルト、マリア、アニータの会話で度々英語を学ぶ、英語を話すようにとお互い指摘する場面がありました。ベルトルトたちプエルトリコ系の人々は生きるためにアメリカへ移住し、母国語であるスペイン語ではなく、英語を話せるように日々勉強しているのです。
舞台はニューヨークではありますが、彼らの住む地域は都市開発のターゲットで取り壊されることが決定していました。しかも周りの建物は古びたところばかりで建物が全壊している地域だということも引きの画で何度も強調されていましたね。ニューヨーク、マンハッタンと言えども決して都会の暮らしではなく、彼らは郊外に住んでおり、貧しい暮らし、地域でのナワバリ争いをしていたのです。
これらは、初期のスピルバーグ作品から見られる大きな特徴です。
最近のスピルバーグ作品にはこういった要素が少なかったので、ファンとしては最高に嬉しいプレゼントとなりました。
(2)完璧な画作り、衣装カラーの意味
本作の最も魅力的な点の一つは、完璧な画作りだと思いました。劇中描かれる深いテーマを抜きにしても、単純にミュージカル映画として完璧なエンターテインメントになっており、ミュージカルシーンの演出などは映画体験として最高でした。
このキャリアでスピルバーグ初のミュージカルというのが凄過ぎます。一体何歳まで挑戦をし続けるのか・・(笑)
本作でもかなり特徴のある強烈な光と陰、暗いトーンはスピルバーグ作品の最も分かりやすい特徴で、「シンドラーのリスト」以降タッグを組んでいる撮影のヤヌス・カミンスキーの持ち味でもあります。
オリジナル版よりも、さらに印象的で記憶に残る象徴的なカットが幾つもありました。
特にダンスパーティのシーン、決闘シーンのショットの美しさは映画史に残る程と言って良いような完璧な画作りでした。ヤヌス・カミンスキーのプロの仕事に脱帽です。ダンスパーティで披露される「マンボ」のシーンは最高すぎて思わず鳥肌立ちまくり!ニヤけまくり!でした。
このダンスパーティシーンでは衣装が美しく、様々な色が強調さていて息を飲んだ人もいると思います。このシーンを観ただけで1900円払って映画を観に行く価値があると思っています。
この時のドレスの色がシャークスとジェッツで明確に区別されていることに気付いた人もいるかもしれません。
シャークスが身につけていた衣装は赤。それに対してジェッツのメンバーが着ていたのは青。左右で分かれて踊っていたのでこの二項対立はかなり分かりやすかったと思います。
なぜ左右で衣装のカラーをハッキリと変えているのか。
それは本作最大のテーマにも通じる「分断」を表しているのだと思います。
アメリカにおいて赤は共和党のカラーであり、青は民主党のカラーなのです。明確に政治的立場を意識させるカラーになっているところも面白いです。
共和党は変革を掲げており、今回は移民であるプエルトリコ系にその宿命を背負わせていました。アメリカの中で自国を守る保守的な立ち位置であるジェッツはやはり民主党を表していますよね。
他にもアニータのドレスは黄色で、アニータの部屋の中にも黄色い布がたくさん置いてありました。
黄色はアメリカの選挙結果の際、「激戦区」を意味するカラーなのです。
なのでアニータの役割は「どちらかの立場になり得る存在」。どちらの側にも転がる可能性を秘めている存在なのだと考えています。
さらに、主人公の衣装のカラーが変化するところも、見逃せないポイントでした。トニーとマリアが出会う時二人の衣装は白でした。ポスターのキービジュアルにもなっている最も重要なシーンである「トゥナイト」を歌う場面でも衣装は二人とも白です。
白い衣装は、まだ二人ともどこにも染まっていないことを表しています。アニータがマリアに白いドレスを最初に着せた時、「赤いドレスが良かったのに」と愚痴をこぼすシーンも意味深です。
白い衣装たっだマリアは、ラストシーンでトニーと再会を果たすとき、水色に変わっていました。民主党のカラーに近い色になっていてトニーと地元を離れる決心がついた事で、よりアメリカに染まっていくという心情を衣装で表現していました。
しかし、マリアの目の前で射殺されてしまったトニーは、無惨にも白いシャツが血の赤に染まり共和党の色で染まっていくのでした。二人の残酷なすれ違いが衣装で表現されており、考え抜かれた演出です。
まぁ、ここまで色々考えなくても、「ラ・ラ・ランド」的なオシャレな衣装として、十分視覚的に誰でも楽しめるようになっていましたね。
こうした衣装カラーで心情や立場を表す表現は昔のアメリカンニューシネマ作品でも良く見られた演出でした。
この演出からも、スピルバーグがいかに原点に立ち戻って本作を作ったかが窺えます。
(3)オリジナル版ではいなかったバレンティーナの登場。ドクのポジションをバレンティーナに変更した理由とは
オリジナル版からの変更点は、細かい部分ではたくさんありましたが、最も大胆で重要な変更点は、シャークスとジェッツの抗争の仲裁に入るドクのポジションが、ドクの妻であるバレンティーナに変更されていた点です。
ここでスピルバーグがやはり粋なのが、ドクの奥さんとして登場したバレンティーナを演じたのはオリジナル版でアニータを演じたリタ・モレロでした。彼女は当時助演女優賞を受賞し、今作では製作総指揮としてクレジットされています。
オリジナル版でジェッツからレイプされたシーンを見事に演じ、本作では60年の時が経ち、レイプを止める側になったのです。
これらの事実を踏まえると、スピルバーグがバレンティーナを物語に追加した意味が絶対にあるはずだと推測できます。
バレンティーナはプルトリコ人の設定で夫のドクはアメリカ人だという説明がありました。アメリカ人とプエルトリコ人が人種を越えて結婚している成功例として登場するのです。バレンティーナは夫のドクを尊敬し愛していたというセリフもありました。
そしてこの変更点こそ、スピルバーグが本作をリメイクした本当の意味に関わってくるのではと思っています。
オリジナル版のラストはトニーが銃で殺され、殺人を犯したチノは警官に捕まり、舞台の終わりのように、全員がその場から去っていくという印象的な終わり方でした。ただ、オリジナル版のラストは人種問題によって、分断された双方が何の和解や救いもなく終わってしまうのです。
スピルバーグは、そのオリジナル版のラストシーンに救いの演出を入れたいのだと感じました。
現実にアメリカに起きている様々な問題として、この救済部分を描かなければ、あまりにも絶望的です。
人種を越えて結婚したバレンティーナの店は言わば、アメリカ人、プエルトリコ人両方が出入りできる唯一の自由と平等が成立する場所として登場します。
トニーが死んだ後、シャークスとジェッツが全員でトニーの遺体をバレンティーナの店まで運んでいきます。遺体を運ぶ場所が明らかにオリジナル版から変更されていたのです。
自由と平等を表すバレンティーナの店に、全員が入っていくことで、スピルバーグは分断の和解と救いを最後に表現したかったんじゃないかと思いました。
そして、唯一劇中で強く明確な憎しみを持って殺人を犯したのがシャークス側のチノでした。オリジナル版では警官に連れられて舞台から去りましたが、本作ではバレンティーナに連れられて警察の方へ向かって終わりを迎えました。
プエルトリコ人のチノがプエルトリコ人のバレンティーナによって連れられて警察へ向かう姿は、シャークスとジェッツの戦争の終了を告げていたように感じました。
これこそが、スピルバーグが描きたかった「ウエスト・サイド・ストーリー」なのではないかと思わずにはいられません。
しかし、スピルバーグであればここまで示唆的に救いを表現せずとも、もっと大胆にオリジナルのラストを変更できたのではいか、という疑問が残ります。例えば、トニーが殺されないラストを描くなど。
あくまでオリジナル版にリスペクトを払いつつ、オリジナル版のラストを変えず演出のみで小さな変更を行なっているのは、無闇に希望を持たせてはいけない、と考えたからかもしれません。
分断と戦争の終了を希望として提示しつつも、最後のシーンは鉄格子越しに映していました。
このあまりにも示唆的なカメラワークは、まだまだ終わりの見えない現代アメリカの分断を予見させるものではないでしょうか。
まとめ
ハリウッドが生んだ、巨匠監督であるスピルバーグ待望の新作。すでにアカデミー賞が発表され作品賞、監督賞など7部門にノミネートされています。
それだけ本作の出来は素晴らしく、是非映画館で観て欲しい映画です!
デートムービーとしても最高の作品なんじゃないでしょうか。
スピルバーグの原点回帰的な作品としても重要な映画として位置づけることができるし、常に戦争を憂いてきたスピルバーグがこのタイミングで、なぜ、「ウエスト・サイド物語」をリメイクしたのか、その歴史的重要性を考えさせられる映画でした。
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